口の奥の本棚

古に絵本の紹介をしていたブログ。今はたまーにてきとーに思ったこと書いてます。

手紙を書くこと

職場の人たちと雑談していて、パートナーの誕生日プレゼントに手紙を添えるか?という話になった。うちは付き合い始めて10年になるけど、毎年相手の誕生日には手紙を書いている。付き合いが長いとプレゼントはもうリクエスト制になってしまうので、どっちかといえば手紙の方がメインというか、今年は何が書いてあるかな、なんて楽しみにしている。

という話をしたら「せきぐちさんは文学部で、読書家だから書けるんでしょ?」と言われた。

私はその言葉にちょっとむっとしてしまった。

なぜむっとしたのか自分でも咄嗟にはわからなくてはぐらかしてしまったけど、何か違和感があった。

その人はたぶん文章を書くことが得意じゃないんだろう。確かに私は読むのも書くのも好きだ。でも手紙って、書けるから書くものなのか?

私は文学部だけど哲学科だから文章を習ったわけじゃない。読書は好きだけど月に1〜2冊程度で読書家っていうほどでもない。昔から書くことは好きだったけど、上手なわけではない。

夫は尚更で、文学部だけど環境系の勉強をしていたし、読むのも書くのも特別好きなわけじゃない。それでも毎年一回、必ず手紙を書いてくれる。

文章はただのツールであって、うまく使いこなせるに越したことはないけれど、肝心なのはそれで何を伝えるかだ。英語を学んだって話したいことがなきゃ意味がないのと同じ。逆に伝えたいことがあるなら、英語が話せなくたって、身振り手振りでもボディランゲージでも伝えようとするだろう。

だから、「書けるから書くんでしょ?」発言にむっとしたのは、「あなたは書かずとも伝えるべきことを相手にきちんと伝えられているんですか?」という点にあったのかもしれない。

手紙じゃなくてもいいけれど、あなたがいてくれてどんなに嬉しいかということを、相手にわかる形で、その気持ちに一番ふさわしい形をした言葉で、相手に届けられているんですか?

書けるから書くんじゃない、大切な気持ちを大切に伝えたいから書くんだ。

私は感情がダダ漏れているタイプの人間なので、普段から好きだの幸せだの甘い言葉は毎日蛇口を捻るように垂れ流しているけれど、その言葉は水のように流れていって、とどまってはくれない。もし私に万一のことがあったら、相手の記憶には残っても、それを確かめる術はなくなってしまうだろう。だから私は年に一度、そのときに一番ふさわしい色と形をした言葉を選んで、それを織るように紡いで、ラッピングもして、相手に手渡す。どうか、どうかこの気持ちが伝わりますように。この人の生を肯定できますように。

 

私の誕生日には、私が書いたのと同じように大切に書かれた手紙が届く。筆まめでない夫が毎年手紙を書くのはさぞかし大変だろう。それでも書いてくれるからこそ、その手紙は美しくなる。白い封筒が黄ばんでしわになる頃、同じようにしわしわになった私の手は、必ずその手紙の束を大事に抱えている。

わからないもののせいにしたい

占いとか、パワーストーンとか、スピリチュアル系のものが嫌いじゃない。スピってるとかいって揶揄されるから大声じゃ言えないけど、占いを見るのが好きだし、タロットカードもパワーストーンブレスも持っている。でも信じてるかといえばそうでもない。

 

昔私は中学受験組だったので、小学生の頃から塾に通い、受験勉強をしていた。国語が得意で何もしなくても偏差値70を取れる一方、算数はいくら勉強しても偏差値47とかだった。だから勉強するのはいつも算数だった。偏差値70より47の方が遥かに伸び代があり、伸ばすのも楽だから。

公開模試では問題に対して全受験生の何%が正解したかの正答率が載っている。正答率が50%以上あるのに自分が間違えている問題は、次に正解できるようによく復習しておかないといけない。逆に20%や30%だったら気にしなくていい。

何が言いたいかというと、常に減点方式で生きてきた。自分はこれができない、あれもできない、努力して克服しなければならない。あれもこれもできないのは自分の努力不足のせいなんだ、努力さえすればああいう風になれるのに、努力しない自分が悪いのだと、全ての原因を自分に背負わせていた。だってそうじゃないと説明がつかないでしょう?と本気で思っていた。

今はそれは正しくないとわかる。とても驕った考え方だった。むしろ努力だけで報われることの方が少ない。

一生懸命頑張って努力して、でも報われるときもあるし報われないときもある。自分の力だけで物事が成り立っているわけじゃない。それはわかってはいるけれど気持ちのやり場がない。どうしたらいいんだ!そういうときは、自分以外のおよそ説明のつかないものに丸投げしてしまう。占いやパワーストーンや神様や仏様に。

今はいろんなことがはっきりしすぎて、責任や原因の所在、解決策、正論で目がチカチカするけど、科学的に説明できないものはそのまま優しく受け止めてくれる。それに縋って依存状態になったり、生活が破綻するようではもちろんよくないけれど、背負いすぎた自分の責任をちょっと肩代わりしてくれるのは、正論より、説明できないわからないものの方なんじゃないかな。

 

言いたいこともまとめ方もよくわからなくなってきたので終わります。パワーストーン買ったら文章力もあがったりしないかな。

共感ってなに

私は友達が少ない。

そもそもあまり人を信用しないタイプなので、困ったときに自分を助けてくれるかどうかもわからないわりに、人間関係のトラブルやなんかで嫌な気持ちになることも多いし、本当に好きになれる友人なんて数人くらいだろう、だったら無理しなくてもいいかな、みたいに思っていた。そんな感じでいたら人間関係が減ることはあっても増えていくことはなく、学生時代が終わればあっという間に友達は減っていった。

それは悪いことかというと、そうでもない。人は人、自分は自分。比べる対象が少なくなったことで遥かに生きやすくなったし、あの学校という狭い空間の中で自意識過剰を募らせて、雁字搦めの呼吸困難に陥っている頃の自分は本当に苦しかった。今からあの環境に戻れと言われても無理だと思う。自分の働いたお金で自分の好きなように生き誰にも文句の言われない大人は、子どもよりよっぽど楽だ。

それにこんな年にもなればライフステージも人それぞれになって、結婚したり子どもができたり、だんだん話が合わなくなっていくのも当然。同じ空間と時間を共有していた学生時代と違って、もう友人と共有するネタが出てこない。結局疎遠になるなら、いなくてもしょうがないだろう。

 

人は人、自分は自分。

そんな考えがしっくり身についてしまったとき、わからなくなったことがある。

共感ってなに?

 

自分が自分の認識を通してしか世界を捉えられない時点で、人と何かを本当の意味で共有することは不可能だ。私がこのジュース甘いね、といって同意を得られても、相手の甘いがしょっぱいという意味だったら、なにも共有できていない。私が見ている空と相手が見ている空、全く同じように見えているという保証はどこにもない。

 

しかし一方で、友人と私、感じている気持ちは一緒だと信じきれる瞬間だって、誰しも経験したはずだ。一生懸命練習してきた結果勝ち抜いた試合、布団に隠れて深夜まで送り合ったメール、腹筋が割れるかと思うくらい笑った昼休み。あの瞬間瞬間で、私とあなたは同じ気持ちだったと言い切れない悲しみを認めたくない。

 

大人になって、人にはさまざまなバックグラウンドと、性格や考え方や生まれ持ったものと、金銭や物質的な事情と、その他諸々が複雑に絡み合って今その人があり、それは自分とは決定的に違うということがわかってしまった。

そのうえで共有できる感情、あるいは友情って、なんなのだろうか。でもそういうものがなければ、古い絵画が現代人を惹きつけることはなく、音楽が国境を越えることはなく、小説の主人公が自分の身に重なることはない。

共感は小さな奇跡だ。

 

ひとつ思い出したものがある。卒業論文ショーペンハウアーを書いたとき、参考文献の中で彼の思想の元のひとつであるインド哲学の詩句が紹介されていた。写メが残っているだけで本のタイトルももうわからないが、ずっと心に留めている、美しい引用である。

 

『ボーディチャリヤ・アヴァターラ』の次の詩句は、自己と他の存在の同一性を説くものとして注目されるべきであろう。この詩句は非常に美しい。わたくしはシャーンティデーヴァのこの詩節を引用しよう

-ー(中略)--

他の存在の苦しみを、わたしは取り除かねばならない。自己自身の苦しみと同じように、それは苦しみだから。また、わたしは、他の存在を助けなければならない。わたし自身、生きものであると同じように、彼らも生きものだから。

 

 

自己と他の存在にカケラでも同一性があるからこそ共感は生まれるのだとしたら、それはとてもロマンティックだ。人は人、自分は自分、だけれど、人は自分、自分は人。そういう側面があったっていい。

 

憧れの人

 

最近、Twitterで「この人素敵だなー」と思う人を見つけた。その人は女性だけど中性的で、目が切れ長の、知的な人である。難しい本を読み、ストレス解消に料理をし、口数の少なそうな落ち着いた人。彼女はマンツーマンの接客業をしていて、お金を払えば会うことができる。会ってみたいなーとふんわり思う。

私はその人とは正反対だ。THE・女の子という感じの体型や服装。読書や料理はそこそこするけど、難しいことや面倒なことはしない。思ったことや感情が全部顔と口に出てしまい、ミステリアスとは程遠い。

憧れとはやっぱりないものねだりなのだろうか。自分で自分の性格はよくわかっているし、美点もそれなりに把握しているつもりだ。私の服装は自分の体型を理解した上で一番似合うものだし、わかりやすい性格は素直で表裏のない、親しみやすさに繋がっていると思う。これが自分のキャラであり、自分らしさだと思う。

私が彼女のようになったらそれは私ではなくなるし、そもそもなれるわけがない。それでも憧れるのは、やっぱり正反対の人だ。どこを目指せばいいんだろう。その人のようになりたいと願っていいのか迷う。

 

アリグモというクモは、クモでありながら見た目はほとんどアリと見分けがつかない。アリに擬態することでより強く多彩な攻撃手段を持っているように見せたり、共食いの被害に遭うのを防ごうとしているのではないかといわれている。しかしあまりにもアリになりすぎて、本来クモとして持っている跳躍力や餌の捕獲能力を失ってしまったそうだ。

 

私は憧れの人にはなれないしならなくていい。でも誰かのことを素敵だなと感じるトキメキは大事にしたいと思う。

なんでも忘れてしまう

ぼけちゃんはなんでもわすれてしまう

どのみちあるいてここに来たっけ?

あつめたシールどこにしまったっけ?

このあいだなに食べたっけ?

 


むかしからこんな感じ

どうしてこんなにわすれてしまうのか とてもふふくだった

だってうれしかったこと たのしかったこと わすれたくないことまで、だいたいみんなわすれてしまう

きっと頭の中にどろぼうがいるにちがいない

じいちゃんに頭の中への行き方を聞いたら、夢の中で100ぺんでんぐり返しすればいいと言われたので、その夜ぼけちゃんは夢の中でぐるんぐるん100ぺんでんぐり返しした

頭の中には神さまがいた

「どうしてわたしの頭の中をどろぼうするの!」

「いやいやごめんよ、でも神さまもたいくつなんだ。ひとりでずっとすることもなくって、だからぼけちゃん、たのしいことたくさんして神さまにもわけてくれないかい」

神さまのもうしわけなさそうな顔をみてちょっとかわいそうになったぼけちゃんは、それからたくさんたのしいことをした

たくさんたのしいことをして、たくさんうれしくなって、たくさんわすれた

そしてぼけちゃんはそのうちおとなになり、もっとぼけたばあちゃんになって、あったかいふとんの中で死んだ。

ふーっと魂がぬけたとき、白い雲の中で神さまが待っていた。

「やあやあぼけちゃん、たのしい気持ちをたくさんありがとう。とてもたのしくてうれしくていい気分だったよ。お礼にこれから天国のステキなところに連れてってあげよう」

ぼけちゃんと神さまは手をつないでスキップしながら天国にむかった。それからぼけちゃんは空の上でしたたのしいこと、もう2度とわすれなかった

履ける靴がない

 

 

私の場合、靴屋に行っても履ける靴が売っていない。この恨みは結構深い。靴屋なんてたくさんある。ちょっと大きいショッピングモールに行けば2〜3店舗は必ず入っている。なのに、本当に選択肢もなく1足も履ける靴がなかったりする。

なぜなら私は足が人より小さいから。

いつも履くのが20.5cm〜21cmで、このサイズは調べてみたら今の子どもたち8歳〜9歳の平均だそう。シンデレラサイズ、なんて呼ばれたりもするけど、ディズニーのシンデレラはアメリカサイズ4.5=21.5cmらしいのでシンデレラよりもう少し小さい。

更にいえば、かかとも小さい。縦の長さの問題だけではない。例え20.5cmの縦ぴったりな靴を履いたところで、一歩踏み出せばパカっとかかとだけこんにちは。ゆえにストラップのないパンプスやサンダルは不可。

以前、通りかかった個人経営の靴屋の店主に呼び止められたことがある。君が履いているサンダルは足に合ってないね、こっちに来て、サイズはいくつ?と。一通りやりとりし何足か試し履きした結果、店に履ける靴は1足もないことがわかった。店主は申し訳なさそうな顔をしたあと、トンカチで殴って腫らせてからまた来てくれ、と冗談を言った。なんでこっちが靴屋に合わせにいかなきゃなんないんだよ、と思った。

 

そういうわけで、もう30代なのに、キッズの靴を履いている。惨めである。

 

この惨めさはどこからくるのか。それは世の中に相手にされていないという疎外感だと思う。S.M.Lに該当しない者は私たちのマーケティングの範疇にありません、みたいな。でも靴屋さんが私の靴を作ってくれないなら、何を履けばいいですか?

もちろん小さい人向けの靴やオーダーメイドもある。でも知っていますか。小さい人向けの靴はかなりいいお値段がするし、数が少ないから選べないし、ストラップがついてなくて結局履けなかったりする。オーダーメイドがいくらかご存知ですか。しかもオーダーメイドの靴に受付可能なサイズが設定されていて、その対象でなかったりする。難儀でしょう。

 

こういうことを考えるたびに思うのは、セクシャルマイノリティの人も同じように感じているんじゃないかな、ということ。異性愛が当たり前とされ、結婚妊娠出産が当たり前とされた時代からかなり変わってきてはいるけれど、それでもこう、私たちは「違う」んでしょ?みたいな疎外感。確かにパートナーシップ制度はできました、企業もLGBTQに配慮していることを表明しています、でも同性婚はできないんでしょ?共同で養子を迎えることはできないんでしょ?みたいな。

他の人と同じように靴が欲しいだけなのに、なんで私はこんな苦労しなきゃいけないの?比較することが小さすぎて当事者に怒られそうだけど、同じような気持ちだと思う。

 

世の中の規格から外れる、って、気づかないだけで割とありがちなことなんじゃないだろうか。体型、右利きと左利き、障がいや病気のあるなし、など。それ自体は仕方のないことで、ただそれによって傷ついたり不利益を被ったりしていることに気づいていないことの方が、影響が大きい気がする。そういう微かな傷に、自分でどんどん気づいてあげたい。傷ついていることに気づかないと、それは自分が悪いわけではないと言ってあげることができない。

 

 

だから、自分の足をトンカチで殴らなくてもいい。殴るのは靴屋の発言の方である。

ずーっとずっとだいすきだよ

 

子どもの頃に読んだ本が、大人になってもずっと心の中にある、ということはあるけれど、私にとってこの本ほど自分の生き方に影響を与えたものはないかもしれない。

小学校2年生だったと思う。国語の教科書に載っていて、毎日音読の宿題が出ていたから、とてもうまく読めるようになった。幼い頃から共に成長してきた犬を亡くした男の子が、毎晩、ずっとずっとだいすきだよと声をかけていたおかげで、悲しさに飲まれなかったという話。当時その絵本の価値が真に理解できていたかはわからないけれど、その頃から大好きだった。

 

好きなものは好きと言わねばならない、と思う。大切なものは大切と、愛しているものは愛していると伝えなければならない。その言葉は盾になって、いつか別れた後のその人を守ってくれる。その言葉は自分にも降り注いで、愛する人がいる幸せを自分に教えてくれる。好きなものは好きと言わねばならない。

 

しかし同時に、嫌いなものは嫌いといわねばならないとも思っている。嫌いなものを嫌いといわないと、自分の好きに説得力がなくなるから。でも嫌いという言葉には注意が必要で、使い方をちゃんとわきまえておかないと、無闇に人を傷つけることになる。

考え方は人によって違くていいけれど、私の場合は、人の言動や性格に使い、存在には使わないようにしている。普通は人に対して使うのはよくないというかもしれない。でも、誰それのこういうところが嫌い、というのは、自分はこうなりたくない、こうあるべきではないと自覚することだし、自分の生き方の輪郭を浮かび上がらせるのに必要だと思う。ただ、言葉にしなくていい。それはあくまでも一個人の見方であって、それを知らしめたり誰かに同意を求める必要はない。

一方で、私が嫌いと言わないようにしているのは、存在そのものに対してである。乳酸飲料が嫌い、グロ映画が嫌い、ゴキブリが嫌い。これはみんな嫌いではなくて、苦手と言っている。だって乳酸飲料もグロ映画も、私が味わい方楽しみ方を今は理解できないだけで、好きな人はたくさんいるし、自分もいつか好きになれるかもしれない。それが好きでない原因は自分にあるのだから、苦手という言葉を使う方が正しいと思う。ゴキブリに関しては、命そのものに評価をつけるべきではない。例えどんなに苦手でも。(ゴキブリだって好きな人もいる。苦手なのは自分の見方が狭いせいだ)

 

好きも嫌いも、気持ちがこもっているから、人に与えるパワーは大きい。どうせ発するなら、嫌いよりも、好きをたくさん伝えたい。好きと思ったときに好きと伝えられることは、得難い幸せなのだから。

歯医者

2ヶ月近く通った歯医者が今日終わった。

 

私は昔から歯が弱くしょっちゅう歯医者さん通いをしていたので、口内は穴ぼこチーズに白いプラスチックを詰めたような歯ばっかりになっているはずである。それでもなんとか、また虫歯0の状態に戻ることができた。

これからは定期的に検診を受けよう。治療を終える度に誓い、そして毎回忘れる決心を今回もする。

 

そういえば小さい頃は通うたびに石膏の人形やシールをもらった。治療のあいだに手の甲に白いペースト状の何かで花の絵を描いてくれたりもした。歯医者に行くのは毎回泣いてごねるくらい嫌だったけど、手に描いてもらうチューリップはとても嬉しかった。

大人になった今はもちろんごねることも嫌がることもなく普通に通っていて、なんなら歯医者に褒められるぐらい痛みに強く、順調に治療を終えたわけだが、それでも思い出してみるとなんだか、あの石膏の人形が無性に欲しくなってくる。あのとてつもなく無用ですぐ捨てられる石膏人形。あるいは治療後30分も経てば取れてなくなっている手の甲のチューリップ。がんばりましたの証。

 


大人になったって痛みに強くたって、わざわざ医者に通って痛みに耐えていることには変わりない。虫歯になったから歯医者に行くなんて当たり前のことだとはわかっていても、一連の治療が終わった今日くらい、何かご褒美があってもいい。

そうは思っても、そのご褒美はもう他人から与えてもらえるものではなく、自分で自分に与えなければならない歳になっていて、そして自分に何を与えてやればいいかわからない歳になっている。

当たり前のことを当たり前にやっただけ。大人なら当然。褒美なんてもらえるほど何かをがんばって達成したわけじゃない。そんな気持ちがあるからこそ、他人から認められ与えられたい。いらない石膏人形とか。

 

家に帰ってきて、バッグの中の診察券を取り出し、手を洗う。
あれを貰えなくなったのは何歳の時だろう。大人しく歯医者に通えるようになったのもその頃だろうか。

今だって、欲しいものとか、役に立つものとかじゃなくて、本当になんでも、いいんだけどなあ。

何枚目かの治療の領収書と一緒に、そんなやるせない気持ちもそっと仕舞うのだった。

名前

大学生になる前の春、書き出したやりたいことのひとつが「草花の名前を覚える」だった。

 

草花は好きだ。それに昆虫も好き。星も好き。最近のマイブームは貝とパワーストーンツイッターで「ビーチコーミング」と検索をかけては、打ち上がり拾われた貝を延々と見続けている。あるいはメルカリでパワーストーンブレスの業者を追っかけ見まくっている。そんなことをしていると必然貝や石の名前も覚えてくる。

 

去年だか、家族とトレッキングに行ったとき、「ここの山に生えているシダの種類と名前」の看板があった。十数種類書いてあったけど、流し見するだけで通り過ぎてしまった。シダはあまり詳しくないので見てもよくわからないし、生えてるのがどれだかもわからない。

でももし私が草花や昆虫や星や貝や鉱物と同じようにシダのことも知っていたら、きっと看板を熟読して、ああこれが生えている、これもどこかに生えてるのか、とちゃんとその存在を認識したはず。名前を知っていればそこにいるとわかるのに、知らないが為に、ないも同然になる。そんなの寂しい。

幼稚園のとき、配られたポケット図鑑を何度も何度も繰り返し読んでいた。おかげで今でも見ただけでわかる草花がたくさんある。小学校の理科で星について習ったから、金星やオリオン座の位置で季節を感じられる。畑で育てている野菜を教えてもらったから、好き嫌いがほとんどないし食べ物も残すことがない。

 

名前を覚えること。その存在がわかること。物言わぬ彼らを慈しむ心は、そこから始まる。

 


ちなみにこのあいだ海に行ったときなぜか蝶の死体を拾い、展翅して標本にしたのだけど、その蝶は前の夏に道端で偶然見かけてネットで調べ、覚えていた顔見知りさんだった。その名もアカボシゴマダラちゃん。こんな巡り合わせも、名前を調べていなかったら気づかなかったのだなあ。

健やかな成長と豊かな色彩『はらぺこあおむし』

 

今日はとてもいい天気。

晴れていて、ぽかぽかで、のんびりで、いい風が吹いています。

家族も出かけてしまいました。用事も特にない。

こんないい日なので、庭のベンチにクッションを敷いて、絵本を読みます。

ちょっと暑かったけど、とても気持ちよかったですよ。

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ご紹介するのは誰もが知ってる超有名作『はらぺこあおむし』です。

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エリック・カール作『はらぺこあおむし



私もこの絵本が大好き。なぜってもうめちゃくちゃかわいいんです。

 

ちっぽけあおむしが生まれたのは、きっと今日みたいな日だったのでしょう。

あたたかいお日さまの下で、生まれたばかりのあおむしはおなかがぺっこぺこ。

 

月曜日は1こ、火曜日は2こ、水曜日は3こ…

あおむしがくだものを食べたいだけ食べていく姿は、繰り返される言葉のリズムによって、まるで歌うよう。

ああ、のびやかですくすくとしていて、かわいいな…なんて思っていると、

土曜日!

どっひゃー!いくらなんでも食べすぎ!思わず笑ってしまいます。

その晩あおむしはおなかが痛くなって泣いています。最高にあほかわいい。

見てこの顔。

f:id:koppepan0814:20181110144119j:plain悲しみに暮れています。

 

 

1週間めぐって日曜日の朝。

あおむしあおむしらしくみどりのはっぱを食べて調子を取り戻します。よかったね。

ちっぽけあおむしはたくさん食べたおかげでふとっちょあおむしになりました。

そしてさなぎになり何日もぐーぐーねむって…きれいなきれいなちょうちょになったのです。

 

 

ああなんてかわいいの。単純でシンプルで健やかで、私もかくありたい。

食べたいだけ食べて、ねむるときはねむって。

たまにおなかが痛くなったりしても、そのうちちゃんと治ります。

ひとだって同じですよね。

食べたいものを食べて、夜はきちんと寝て、そういう単純な繰り返しが心身を健やかに保つ秘訣かも。

自分の欲求を難しい理屈で押し込めず、素直にシンプルに生きたいものですね。

そうすれば私たちもきっと色鮮やかで美しいちょうちょになれる。

私もはらぺこあおむしを見習います。

 

 

ただし食べ過ぎ注意。

 

 

はらぺこあおむし エリック=カール作

はらぺこあおむし エリック=カール作

 

 

 

あほかわいいだけじゃない 『もうぬげない』

今日ご紹介するのはこの本。

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ヨシタケ シンスケ作『もうぬげない』

ヨシタケシンスケ作『もうぬげない』

(ブロンズ新社 第9回MOE 絵本屋さん大賞第1位)

 

今ノリにノッているヨシタケシンスケさん。

超有名でどこの本屋さんでも平積みされているのでご存知の方も多いはず。

どの絵本も発想豊かでキュートでとても面白いのですが、まずは『もうぬげない』をご紹介!

 

おフロに入ろうとして引っかかったふくが全然脱げない!ずっとこのままだったらどうしよう…色々考えてみた結果、きっとこのままでもだいじょうぶ!やっていけるぞ!と思ったのも束の間、もっと悲惨な事態に…?!

 

服がひっかかってぽよよんとしたおなかが丸見えな姿があほかわいい

1ページ目からあほです。呆然としてる感じ、ジタバタしている動きがあはあは笑えます。服を脱ごうともがいている姿や、これからどうやって生活していくか…え、そうなる?と1ページごとに楽しい。

でもそれだけじゃないんです。

ヨシタケシンスケさんの素晴らしいところは、お子様らしいユニークな視点から出発して、世の中や周りの人のことを考え思いやる優しさに帰結するところ。

こういう人がいるかもしれない、こういう人はどうだろう、あなたはこうよね、と想像力を膨らませて、お互いにうまくやっていこうとする。

他者理解の本なんですよね。

大人が読んでも見習いたいなと思ってしまうページがたくさんあります。

しかし決して説教くさくなく、あくまでも面白くてかわいい。

最後もしっかり落としてくれます。私はこのラストで本棚の殿堂入りを決定しました。

 

大人が読んで楽しい絵本って、大人が読んでもやっぱり学ぶところがあるんです。ヨシタケシンスケさんの本は楽しませる部分と考えさせる部分のバランスがすごくいいと思います。楽しいけど軽くない。かわいいけどそれだけじゃない。ぜひ味わってみてください。

 

もう ぬげない

もう ぬげない

 

 

心の静寂に耳を澄ませて...『きこえる?』

 

口の奥の本棚、最初にご紹介するのはこの絵本。

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はいじまのぶひこ作『きこえる?』


はいじまのぶひこ作『きこえる?』

福音館書店(ブラティスラヴァ世界絵本原画展 金のりんご賞 受賞) 

 

 

 なぜこの絵本がトップバッターかといえば、それは私の好きな 大人の絵本の楽しみ方 に一番ぴったりだから。

 私が絵本を読むときは、誰もいない部屋へ行きます。テレビを消します。あったかい飲み物を入れます。何の音もしない、誰も割り込んでこない15分を用意します。

無音の中で、そっとこの絵本を開いてください。

 

 2色で作られたシンプルな絵。

キャンバスに画用紙を貼り合わせたような、質感のあたたかさ。

繰り返される「きこえる?」という問いかけにじっと耳を澄ませてみれば、心の中に広がる大きな静寂と、微かなおとを感じる…自然のおとや、命の生きるおと、自分をよぶこえ…。

それはあなたが自然の中に生き、他の命とともに生き、だれかに生かされている証。

 

シンプルな文章と絵の中に広がる深い深い奥行きが、自分の心を鎮め、そっと省みる時間を与えてくれます。


そして不思議なことに、読後日常生活の中で、自分の心の奥深くにこの静寂の世界があることを思い出す瞬間があるのです。

きこえる?…自然のおとや、命のいきるおと、自分をよぶこえ…。

心の静けさにはたと気づく瞬間は、自分を取り戻す瞬間になるのです。

 

きこえる? (日本傑作絵本シリーズ)

きこえる? (日本傑作絵本シリーズ)

 

 

 

 子どもが楽しむのとはまた違った理由で、大人が楽しめる絵本というのも存在します。

このブログでは、子どものためでも、子育てするお母さんのためでもなく、日々社会の中で働き生きる普通の大人に向けて絵本(または児童文学)の紹介をします。

絵本のいいところは、ちょっとの時間で楽しめるところ。忙しい一日を終えた夜、珍しく早起きできた朝、ちょっとの時間を作って表紙を開いてみてください。

あははと笑えたり、じーんとしたり、癒されたり、そうして読み終えたとき、自分の世界の見方が少しだけ変わっているかもしれません。