夫が赤ちゃん(息子)を暗い部屋で寝かしつけている。やや強めに背中をトントン叩きながら、疲れ果てた私に「寝てていいよ」と言ってくれる。私は息子が寝ない焦燥感から解放されてホッと傍に寝転がる。部屋の外から漏れる光が、私より背の高い夫と抱かれる息子のシルエットをぼうっと映し出している。
子育てをしていて時々、こんな光景見たことある気がする…と思う場面がある。この夜もそうだった。
息子にとって夫は絶対に安心、安全な存在だ。全身を預けて、頭を肩にもたれかけて、意識を現実と眠りの間に揺蕩わせている。父の体に包まれ安心しきっている息子を見て、大人気なくて言葉にするのも憚られるけど、少し羨ましい気持ちになる。
私も小さい頃はそうしてもらっていたに違いない。母に同じように抱かれ、あやされ、愛されていたはずだ。母は完璧ではないにしろいい母だったと思う。目一杯愛されて育ってきた自覚があるから、私にもそういう過去があったことは疑わない。
でも、デジャヴで想起されるシルエットは母ではない。私にとって母は絶対に安心で安全で頼れる存在ではなかった。赤ん坊のときや、幼児のときはそうだったかもしれないけれど、いつからか、自分は母と違う道を歩んでいて、母は参考にならないと、悲しいけれど、いい母だった母に申し訳ないけれど、そう思っていた。
私は、暗闇の中で大きくて暖かくて安心できる存在に丸ごとすっぽり体を預けている赤ちゃんを見て、そういう存在を昔童話の中に見ていたことに気づく。それはたぶん、くまの子ウーフのお母さんだったり、わすれられないおくりもののおじいさんだったり。そういう、あたたかくてやさしくていつも味方でいてくれるお母さんが、実在する母とは別に、どこかにいるはずだ、みたいな感覚がずっとある。
たぶん私は小さい頃、もっと誰かに頼りたかったのではないか。その当時に戻れば案外そうではなかったかもしれないし、幼すぎてその気持ちが自覚できていなかったのかもしれない。けれど大人になった今思い返す幼い自分は、何でも自分でやろうとして、頑張って、またそうすることで褒められて、そのやり方が正しいと思い込んで…それが本当にあった感情かさえもうわからない、でもそうだった気がしてしまう。
息子にそんな思いをさせたくない。そう強く思うほど、隣で指を咥えて佇む小さい自分を感じる。彼女を癒す術はあるのだろうか。母はどこにいるのだろう。私も親になったというのに。