口の奥の本棚

古に絵本の紹介をしていたブログ。今はたまーにてきとーに思ったこと書いてます。

光と影

不妊治療をして、世の中には妊娠が難しい・できない人が一定数いることを知り、初めて妊娠をして、一定の割合で流産が起こることを知り…流産の他にも死産、死産の中にも検査の結果子どもを諦める人工死産や、死産が胎児ではなく母体の体質によるもの等、いろんな悲しみがあることを知った。ネットで経験者の声を読んで、どれほどむごいことで、人生を覆す経験だろうと、自分のことではないのに涙が滲む。私がその深い穴に落ちる可能性もあるということ、何より、そういう深い悲しみを抱えた人たちがいることを今までわかっていなかったショックが大きい。

幸福の光が強ければ強いほど、その隣には濃い影ができる。私はもう、影を無視できるほど、子どもではない。

不妊治療中、人のマタニティマークを見るのもつらい自分が、いつかそのマークをつけることになるかもしれないということに悩んでいた。その印を見ることで傷つく人がいるということを知ってしまったのに、自分も傷ついていたのに、どの面下げてそれを掲げられるのだろう。それは妊娠を誇示する目的のものではないとわかっていても、それをつければ、私もまた見知らぬ誰かの加害者になってしまうと怖かった。

今私は希望の光の中にいて、影のことなんて見ようとしなければ見えないのかもしれない。でも、光と影の境界線をふとした瞬間に超えてしまった人たちがいることがいることをちゃんと知っておきたい。知らないと、存在しないことになってしまう。光だけ見ていられたらどれほど簡単で、幸せだろう。その幼さに潜む暴力性さえ知らずにいて、そして奇跡的に光の中だけを進むことができたら、この世界は眩しく美しいものに見えるのだろうか。

私は喉から手が出るほど欲しがって、そして初めて手にしたマタニティマークを、後ろめたさを感じながらつける。不妊治療をしなければ、それはただの注意喚起のマークであっただろう。それが妊娠を誇示するものではないとわかっているけれど、それを欲しがっていた自分が、自分の気持ちのやましさを知っている。

 

そしてそれでも尚、私は自分の気づかないどこかで、人のことを傷つけているのだろうと想像する。私が流死産の悲しみを知らなかったように、何かを知らないことで、あるいは知らないまま起こした言動で、傷つけた人がいるかもしれない。それは仕方のないことで、避けきれないことで、考えだしても何にもならないけれど。そういえば以前職場の先輩が、妹さんが妊娠して喜んでいたのに赤ちゃんの袋の中がからっぽで、体外に出す手術をすると言っていた。あれは稽留流産のことだったのだ。私は生半可な返事をしてしまった。慰められたくて話したわけではないだろうけど、もう少し何か言えればよかった。そんなことがこれから先もきっと起こる。

あるいは無意識に人を傷つけるほど、自分に影響力はないのかもしれない。ただの自意識過剰といわれれば、そんなような気もしてくる。いったりきたりする感情が、どちらの可能性もあって、避けようがなくて、正解もないままゆらゆら揺れているけれど、その中でひとつだけきちんと見えていることがある。私は優しくなりたい。