口の奥の本棚

古に絵本の紹介をしていたブログ。今はたまーにてきとーに思ったこと書いてます。

共感ってなに

私は友達が少ない。

そもそもあまり人を信用しないタイプなので、困ったときに自分を助けてくれるかどうかもわからないわりに、人間関係のトラブルやなんかで嫌な気持ちになることも多いし、本当に好きになれる友人なんて数人くらいだろう、だったら無理しなくてもいいかな、みたいに思っていた。そんな感じでいたら人間関係が減ることはあっても増えていくことはなく、学生時代が終わればあっという間に友達は減っていった。

それは悪いことかというと、そうでもない。人は人、自分は自分。比べる対象が少なくなったことで遥かに生きやすくなったし、あの学校という狭い空間の中で自意識過剰を募らせて、雁字搦めの呼吸困難に陥っている頃の自分は本当に苦しかった。今からあの環境に戻れと言われても無理だと思う。自分の働いたお金で自分の好きなように生き誰にも文句の言われない大人は、子どもよりよっぽど楽だ。

それにこんな年にもなればライフステージも人それぞれになって、結婚したり子どもができたり、だんだん話が合わなくなっていくのも当然。同じ空間と時間を共有していた学生時代と違って、もう友人と共有するネタが出てこない。結局疎遠になるなら、いなくてもしょうがないだろう。

 

人は人、自分は自分。

そんな考えがしっくり身についてしまったとき、わからなくなったことがある。

共感ってなに?

 

自分が自分の認識を通してしか世界を捉えられない時点で、人と何かを本当の意味で共有することは不可能だ。私がこのジュース甘いね、といって同意を得られても、相手の甘いがしょっぱいという意味だったら、なにも共有できていない。私が見ている空と相手が見ている空、全く同じように見えているという保証はどこにもない。

 

しかし一方で、友人と私、感じている気持ちは一緒だと信じきれる瞬間だって、誰しも経験したはずだ。一生懸命練習してきた結果勝ち抜いた試合、布団に隠れて深夜まで送り合ったメール、腹筋が割れるかと思うくらい笑った昼休み。あの瞬間瞬間で、私とあなたは同じ気持ちだったと言い切れない悲しみを認めたくない。

 

大人になって、人にはさまざまなバックグラウンドと、性格や考え方や生まれ持ったものと、金銭や物質的な事情と、その他諸々が複雑に絡み合って今その人があり、それは自分とは決定的に違うということがわかってしまった。

そのうえで共有できる感情、あるいは友情って、なんなのだろうか。でもそういうものがなければ、古い絵画が現代人を惹きつけることはなく、音楽が国境を越えることはなく、小説の主人公が自分の身に重なることはない。

共感は小さな奇跡だ。

 

ひとつ思い出したものがある。卒業論文ショーペンハウアーを書いたとき、参考文献の中で彼の思想の元のひとつであるインド哲学の詩句が紹介されていた。写メが残っているだけで本のタイトルももうわからないが、ずっと心に留めている、美しい引用である。

 

『ボーディチャリヤ・アヴァターラ』の次の詩句は、自己と他の存在の同一性を説くものとして注目されるべきであろう。この詩句は非常に美しい。わたくしはシャーンティデーヴァのこの詩節を引用しよう

-ー(中略)--

他の存在の苦しみを、わたしは取り除かねばならない。自己自身の苦しみと同じように、それは苦しみだから。また、わたしは、他の存在を助けなければならない。わたし自身、生きものであると同じように、彼らも生きものだから。

 

 

自己と他の存在にカケラでも同一性があるからこそ共感は生まれるのだとしたら、それはとてもロマンティックだ。人は人、自分は自分、だけれど、人は自分、自分は人。そういう側面があったっていい。