口の奥の本棚

古に絵本の紹介をしていたブログ。今はたまーにてきとーに思ったこと書いてます。

手紙を書くこと

職場の人たちと雑談していて、パートナーの誕生日プレゼントに手紙を添えるか?という話になった。うちは付き合い始めて10年になるけど、毎年相手の誕生日には手紙を書いている。付き合いが長いとプレゼントはもうリクエスト制になってしまうので、どっちかといえば手紙の方がメインというか、今年は何が書いてあるかな、なんて楽しみにしている。

という話をしたら「せきぐちさんは文学部で、読書家だから書けるんでしょ?」と言われた。

私はその言葉にちょっとむっとしてしまった。

なぜむっとしたのか自分でも咄嗟にはわからなくてはぐらかしてしまったけど、何か違和感があった。

その人はたぶん文章を書くことが得意じゃないんだろう。確かに私は読むのも書くのも好きだ。でも手紙って、書けるから書くものなのか?

私は文学部だけど哲学科だから文章を習ったわけじゃない。読書は好きだけど月に1〜2冊程度で読書家っていうほどでもない。昔から書くことは好きだったけど、上手なわけではない。

夫は尚更で、文学部だけど環境系の勉強をしていたし、読むのも書くのも特別好きなわけじゃない。それでも毎年一回、必ず手紙を書いてくれる。

文章はただのツールであって、うまく使いこなせるに越したことはないけれど、肝心なのはそれで何を伝えるかだ。英語を学んだって話したいことがなきゃ意味がないのと同じ。逆に伝えたいことがあるなら、英語が話せなくたって、身振り手振りでもボディランゲージでも伝えようとするだろう。

だから、「書けるから書くんでしょ?」発言にむっとしたのは、「あなたは書かずとも伝えるべきことを相手にきちんと伝えられているんですか?」という点にあったのかもしれない。

手紙じゃなくてもいいけれど、あなたがいてくれてどんなに嬉しいかということを、相手にわかる形で、その気持ちに一番ふさわしい形をした言葉で、相手に届けられているんですか?

書けるから書くんじゃない、大切な気持ちを大切に伝えたいから書くんだ。

私は感情がダダ漏れているタイプの人間なので、普段から好きだの幸せだの甘い言葉は毎日蛇口を捻るように垂れ流しているけれど、その言葉は水のように流れていって、とどまってはくれない。もし私に万一のことがあったら、相手の記憶には残っても、それを確かめる術はなくなってしまうだろう。だから私は年に一度、そのときに一番ふさわしい色と形をした言葉を選んで、それを織るように紡いで、ラッピングもして、相手に手渡す。どうか、どうかこの気持ちが伝わりますように。この人の生を肯定できますように。

 

私の誕生日には、私が書いたのと同じように大切に書かれた手紙が届く。筆まめでない夫が毎年手紙を書くのはさぞかし大変だろう。それでも書いてくれるからこそ、その手紙は美しくなる。白い封筒が黄ばんでしわになる頃、同じようにしわしわになった私の手は、必ずその手紙の束を大事に抱えている。