口の奥の本棚

古に絵本の紹介をしていたブログ。今はたまーにてきとーに思ったこと書いてます。

ずーっとずっとだいすきだよ

 

子どもの頃に読んだ本が、大人になってもずっと心の中にある、ということはあるけれど、私にとってこの本ほど自分の生き方に影響を与えたものはないかもしれない。

小学校2年生だったと思う。国語の教科書に載っていて、毎日音読の宿題が出ていたから、とてもうまく読めるようになった。幼い頃から共に成長してきた犬を亡くした男の子が、毎晩、ずっとずっとだいすきだよと声をかけていたおかげで、悲しさに飲まれなかったという話。当時その絵本の価値が真に理解できていたかはわからないけれど、その頃から大好きだった。

 

好きなものは好きと言わねばならない、と思う。大切なものは大切と、愛しているものは愛していると伝えなければならない。その言葉は盾になって、いつか別れた後のその人を守ってくれる。その言葉は自分にも降り注いで、愛する人がいる幸せを自分に教えてくれる。好きなものは好きと言わねばならない。

 

しかし同時に、嫌いなものは嫌いといわねばならないとも思っている。嫌いなものを嫌いといわないと、自分の好きに説得力がなくなるから。でも嫌いという言葉には注意が必要で、使い方をちゃんとわきまえておかないと、無闇に人を傷つけることになる。

考え方は人によって違くていいけれど、私の場合は、人の言動や性格に使い、存在には使わないようにしている。普通は人に対して使うのはよくないというかもしれない。でも、誰それのこういうところが嫌い、というのは、自分はこうなりたくない、こうあるべきではないと自覚することだし、自分の生き方の輪郭を浮かび上がらせるのに必要だと思う。ただ、言葉にしなくていい。それはあくまでも一個人の見方であって、それを知らしめたり誰かに同意を求める必要はない。

一方で、私が嫌いと言わないようにしているのは、存在そのものに対してである。乳酸飲料が嫌い、グロ映画が嫌い、ゴキブリが嫌い。これはみんな嫌いではなくて、苦手と言っている。だって乳酸飲料もグロ映画も、私が味わい方楽しみ方を今は理解できないだけで、好きな人はたくさんいるし、自分もいつか好きになれるかもしれない。それが好きでない原因は自分にあるのだから、苦手という言葉を使う方が正しいと思う。ゴキブリに関しては、命そのものに評価をつけるべきではない。例えどんなに苦手でも。(ゴキブリだって好きな人もいる。苦手なのは自分の見方が狭いせいだ)

 

好きも嫌いも、気持ちがこもっているから、人に与えるパワーは大きい。どうせ発するなら、嫌いよりも、好きをたくさん伝えたい。好きと思ったときに好きと伝えられることは、得難い幸せなのだから。